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なぜ私は神を信じるのか ひとりのムスリムが語る

F. カマール 著

 

本からの抜粋 やさしく解き明かされるイスラム教

理由 その1

我々はなぜ存在しているのか?物事を考えることが好きな人は、ランダムな発生という理屈には満足できません。我々のこの組織だった世界が全く偶然に発生したという確率を分析すれば、その確率は無限に低くならざるを得ません。その実現のためにはあまりにも多くの変数の一致が必要であり、その中には許容誤差範囲が非常に少ないものも含まれているからです。さらに、統計学の法則自身、純粋に偶発的な事象と仮定することには否定的に働きます。たとえば、2枚の硬貨をトスして両者が共に裏がでる確率は1/2 x 1/2 = 1/4であり、3枚の硬貨が全て裏がでる確率は1/2 x 1/2 x 1/2 = 1/8、4枚の硬貨が全て裏がでる確率は1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 = 1/16であり、以下同様です。イベントの数が増えるにつれて、いかに急激に可能性が減るかがこれで明らかです。しかも我々が存在するためには、多くの、多くのイベントの積み重ねが必要です。例えば、地球と太陽の間の距離は、太陽から平均約1.5億キロメートルです。これは生命が維持されるためにちょうど適切な距離なのです。もし地球がほんの少しでも太陽に近ければすべての生命は熱によって絶滅してしまい、少しでも遠ければ、我々は全て凍りついてしまうでしょう。地球の回転は我々に1日24時間というサイクルを楽しませてくれますがもしこれが違っていて、地球の回転がゆっくりだったら、夜が何ヶ月も続いていたかもしれません。この効果だけでも、全部とは言わないまでも、地球上のほとんどの生命が絶滅してしまうでしょう。一方、太陽の周りの地球の公転が365.2422日でなければならないという必然性も全くありません[1]。もし仮に、冬が43年も続いたとしたら、生命は成り立たなかったかもしれません。もし我々の大気が水素、ヘリウム、メタン、およびアンモニアからできていて必要な酸素がなかったら(例えば木星の大気のように)、地球上の生命は全て絶滅するでしょう。もし水が、液体、ガス、および固体という異なる特性をもつ存在でなかったら、生命のネットの維持にとって必要な、重要な環境と栄養のサイクルの補充とリサイクルに携わっている水のサイクルと流れは不可能です。もし地球の周囲が大気によって保護されていなかったら、生命は常に隕石や、急激な気温変動や、宇宙線/紫外線の攻撃に曝されていたでしょう。そして、ここまでは環境上の僅かな変数について述べたただけです。もし例えば、非常に複雑な存在、例えば動物を考慮にいれるとすると、存在の可能性はさらに急低下するでしょう。

議論を進めるために、人間について考えてみましょう。人間というこの驚くべき構造を説明するために、人間をモジュール的機能/部分に構造的に分解してみましょう。運動という、たった1つのモジュールをとっても、恐るべき複雑さを備えています。世界のトップクラスの大学のコンピューターやロボット工学の研究室では、優れた知能を持った研究者たちが様々なアルゴリズム、ロボットおよび人工頭脳を駆使して何年間もかけていろんな生物学的機能を研究してきております。(クモですらいとも簡単にそのような複雑な動きをしているのに。)博士号を持つロボット工学の研究者がランダムに部品をかき集め、ランダムにそれらの部品を回転させて特定の機能を持ったロボットを作ろうとしているなんてことがあり得るでしょうか?そういう研究者がランダムに文字を書き連ねる発生器を使って機能的な人工頭脳のプログラムのコードを書いているとしたら、どうでしょうか?(ここで問題にしているのは1%にも満たないそのような試みの成功の確率です)しかもいま申し上げたのは運動(たとえば、歩く、走る、登る、跳躍する、などだけです)たとえば、話す、聞くなどの機能はどうでしょうか?

一部の科学者たちは何年も「人工の鼻」について研究を続けてきています。猟犬や寄生ハチの持つエレガントでソフィスティケートな精密さの能力と対照的なものです。また、その他すべての感覚機能はいかがでしょうか?

成功の可能性は一挙に小さくなります。ここまで、心臓、腎臓または頭脳を創造することには話が及んでいません。生化学の分子レベルの生物学的プロセスに話を広げれば、そこには驚くべき数の精密なツールによる驚くべきシンクロナイゼーションとシーケンスに基づく機能を発見します。ここまでハイライトされた変数は、議論の核心を抉り出すために選ばれたごく一部のものにすぎませんが、それでも成功の可能性は急降下してしまいました。

とりあえず、ここまででの議論には何百万もの因子が関わっていること、1つ因子が追加されるたびに成功の確率が急降下することは、ご理解いただけたことと思います。偶然に成功するという可能性は無いとは言い切れませんが、ほとんど起こり得ないと云うべきでしょう。したがって、無限に小さい可能性の出来事が偶然発生したという仮説には説得力がありません。もしある人がそのようなオッズを受け入れたと仮定した場合、ギャンブラー諸君の間でそんな人に実際に会えるかどうかで意見は割れると思います。(次のようなシーンが目に浮かびます:「というと、何かね、あんたは自分の口がどこにあるかっていうことに賭ける気にならないっていうのかね?」「じゃあ言うが、1兆対1のオッズはどうだい...」)そのような気違いじみた(ご免なさい、他に良い言葉が見つからないので)オッズに、他の事なら千ドルの賭けにすらためらう人々が、神様のことになると神様の不在について迷いもなく賭けてしまうとは私には信じられません[2]。

例その1:科学者たちが惑星や銀河を探求している過程で非常に高度な無人の宇宙船に出くわしたと仮定します。それを宇宙のサイコロの転がりによる単なる偶然の結果に過ぎないとして片づけてしまう科学者が何人いると思いますか。そんな処理が、科学界の主流の考えとして成り立つでしょうか?また、放置された無人の建物や、市街が見つかったらどうなるでしょうか?それらの事物を製作するほどの知能を有する製作者に関する話題が科学界から全く無視されるでしょうか?

一方、我々の周囲には非常に高度に構成された、不思議な事物やプロセスのしるしが溢れています。それらの製作者はだれでしょうか?無から生まれたものでしょうか(その証拠もないのに)?

理由 その2

科学が提供するものは数多く、そして大いに研究されるべきですが、それらの価値判断はバランスよく行われるべきです。科学が神になることはできません。適切に使用されれば科学は非常に高い効果をもたらしますが、それだけに頼ったり、神と拮抗する立場に高められると、本当に研究心が高い者には不満足な結果をもたらします。科学は「どのように?」という質問に答えるために使われます。質問はだれ?ではありませんし、また、なぜ?という質問でもありません。「どのように?という質問」に答えることの価値をだれも疑わない一方で、「なぜ?という質問」に答えることを拒否することで科学を神のレベルに持ち上げることになっており、それ自身多くの問題を生じまています。ある種の狭量さと盲心的態度で科学を自分たちの神と考える人々は、「なぜ?」という質問をせいぜい、愚にもつかない部類の質問に格下げしてしまう結果となっています。しかし、心が本当に知識を求める渇きを覚えたら、このような不誠実な質問回避がいったい知性的選択なのだろうかと疑うはずです。

科学は「どのように?という質問」に答えるのは得意ですが、「なぜ?という質問」に答えるのはあまり得意ではありません。たとえば、機械工学や物理の古典的な機械力学(F=M・Aとかd=v・t のような)は、ミサイルの軌跡の決定に必要なような「どのように?」の質問に答えるのはお手のものです。しかし「なぜ?」そのような「法則」が成り立つのでしょうか?一方、初期質量と初期条件によってビッグバン理論はある種のデータを説明する(例えば宇宙データ)上での「どのように?質問」には巧みに答えているものの、なぜ初期質量/エネルギー/条件が存在していたかという「なぜ?質問」には全く答えていません。

もし航空機の中であなたが工学書を読んでいたとすると、そこにはベルヌーイの定理に従い翼の上に揚力が発生するという説明が書いてあるかも知れません。翼型の曲面のせいで、離陸の際には翼の上側の空気が下側の空気よりも速く流れます。そのために上下の圧力に差異が生じ、それがすなわち揚力となるというわけです。これは、とても良い「どのように?質問」であり、またその答えでもありますが、それは「なぜ?質問」には答えません。そもそもベルヌーイの定理がなぜ存在しているのかという点は説明していません。鋼鉄製の船が水に浮かぶのなぜでしょうか?科学の答えはその船がほとんど空気(船の内部は鋼鉄ではなく空気)だからです。空気の密度は水の密度より小さいので空気は水の上に昇りますが、それは密度の小さいものは密度の大きいものの上に昇るからです。船を上に押し上げる力は、アルキメデスの定理により、押しのけられた水の重さによって決まります。それは「なぜ?という質問」には答えず、むしろ「どのように?質問に答えています。その「なぜ?質問」は、なぜアルキメデスの定理が成り立つか?です。また、言わば、なぜ熱力学、重力、および流体力学という複数の法則が成り立つのでしょうか?すなわち、最終的に、観察された現象がモデルに縮小され、またそのようなモデルの機能がある種の公理および法則に従うとされていますが、なぜそれらの基礎的な「法則」、定理、方程式、公理またはその他の好みの名前で呼ばれるものが存在するのかについては、全く説明がありません。

科学者たちは今までそれらの事象について「なぜ?質問に答えようとしてきただけだと言えるかもしれません。結局、新しいデータに応じてモデルは進化しています。ニュートンの古典力学の方程式は、たとえばアインシュタインの理論に対応するために相対理論的な対応理論で改良されることが可能です。

しかしこれらの新しい方程式はそれら自身の「なぜ?質問」に答えようとしてきただけだと言えるかもしれません[3]。したがって、これらの進歩は、実は「どのように?質問に答えてきただけであり、ある種の「なぜ?質問に答えようとしてきただけだと言えるかもしれません。言わば、これらの進歩は、実は「どのょうに?質問に答えようとしてきただけだと言えるかもしれません[4]。

モデルの洗練度により、それらのモデルは進化して回帰的要素を有するか、および/またはそれら自身が回帰的にモデルの一部となることができます。モデルの連鎖が伸びるに従って、「どのように」質問に対する回答が改善されます。しかし、パーツ(たとえば一部の公理および仮定)はモデルの説明力の範囲から外れます。これらのモデルの連鎖の構築が可能である一方で、それらの連鎖は現象を完全に包含するものではなく、一部の公理または仮定は現在のモデルの連鎖では説明されていないものが残ります。

または、より文芸的な心を持つ人には、シェークスピアの『ハムレット』からの言葉の方が良いかもしれません。

ホレーショよ、お前が哲学において夢見ているよりも、もっと多くの物事が天と地には存在しているのだ[5]。

いずれにしても、このアプローチ、すなわち「なぜ?質問」を注意深く解析する一方で、「だれが?およびどうして?質問」を無視することは、教育を受けていない、非常に若い者による知識的に片手落ちな態度です。

別の観点として、

これを書いていて、私自身の子供の頃の思い出が心に浮かびました。ずっと昔のことですから、細かいことは思い出せませんが、その核心部分ははっきり覚えています。

私が小さい時の頃、叔父の一人が自分が学んだ貴重な教訓を私に伝えてくれました。彼によると、あるとき彼は親戚の一人にひどく腹を立てていました。この人は、一時期、ある貧しい開発途上国においてかなりの経済的な影響力を持っていました。私の叔父は、この親戚の人の政策は個人を傷つけたので、憤慨してその人にその旨を知らせたのでした。

すると、その親戚の人は私の叔父に次のような例え話をしたそうです。

誰かが高い壁の上に座っているとする。その下に別の人が、深い池の中で溺れかかって必死になって腕を振り回しているとする。あんたはその男が飛び込んで溺れかかった人を助けるだろうと思うが、その男は安全な方に跳び降りてしまう。

なんてひどい奴だとあんたは思うだろう。

しかしあんたが知らなかったのは、その高い壁の反対側には別の池があって3人の女が居り、彼女らの子どもが溺れかかっていたので、彼は子どもらを救うために飛び降りたのさ。

私がこの話をするのは、それが、人にはときに真実が全く見えていないことがあるということを示しているからです。

真実は時には見通すこと、髪の毛をすくように見極めることが難しいものです。ほんのわずかに違う角度から光を当てて照らして見ると、真実の全く違う面が浮かび上がって見えることがあります。しかし、データを抽出して100%詳しく分析することは困難かもしれず、従ってその真実は明らかにされないかも知れません。科学は素晴らしいツールであり、厳密に、責任を持って追求すべきですが、理論が改善され、新しいデータが発見されると、180度Uターンしてしまうかもしれず、必ずしも常に理想的な真実の代理を務めてくれる訳ではありません。また、存在するすべての情報を我々が観察し、プロセス出来るという完全な保証もありません[6]

(多分同様に、もし我々が2次元世界に住んでいたと仮定すると、3次元の立方体を見ることができるのは、その立方体が我々が住む平面を横切るか、平面に干渉しないがぎり、見ることはありません。)

理由 その3

我々自身のそとにある情報lの性質はさておき、 そこには情報へのリンクの核心的脆弱性に関する古くからの疑惑があります。

人間と蝶々に関する中国の古い話がこれを完璧に捉えています。

ある人が夢の中で蝶になったと思います。目を覚ましたとき、彼は自分が蝶になった夢を見た人間なのか、元は人間であったという夢をみた蝶なのか、わからなくなったそうです。言わば、我々の結論は、真実だと信じる情報の強さに限られると言うのです。

ムスリムたちは、多分、神だけが唯一絶対の真実であるから、神を通じてのみ究極的に本質的真実を知り得る(預言者を介して)と考えているのでしょう。

そうです、私は神を必要としているからといって神が存在することを意味するわけではないと知っていますが、もし神が存在していたら、われわれが神を必要とすることは疑いもなく、そしてそれは神の存在が真実であることの確証の1つになります。(はい、わたしはこの点はやや微妙なものであることを認識しています。)

理由 その4

本能はどのように説明できるでしょうか?科学は、現在説明できない物事をとりあえず「ブラックボックス}として追いやり、将来それを取り扱う(もっと強力な計器が生まれることなどを期待して)ことにして満足しています。例えそのようなメカニズムが将来明らかになっても、そのような発見は宇宙の内部の素晴らしい仕組みに対する人々の驚きの声を招くでしょう。自然には驚くべき本能が潜んでいます。我々はそれらを見過ごしたり、それらの価値を低めたりまたは見くびってはなりません。もっと疑問をもつべきではありませんか?鳥はどうして巣のつくり方を知っていたり、初めて空を飛ぶとき飛び方を知っているのでしょうか、哺乳動物は初めてお産をするときになぜ仔を生むことができるのでしょうか、生まれたばかりの子供はどうして自分のからだに栄養を取り入れることを知っているのでしょうか、ビーバーはなぜ(凹型の)ダムをつくるのでしょうか?「動物の究極的なプログラマー」は誰でしょうか?そして、なぜこのプログラムコードが存在するのでしょうか?(それは、「なぜ?質問」であり、すなわち、どうしてプログラムが働くかという 「どのように?質問」、ではありません。)

理由 その5

宇宙の美しさ。宇宙は機能的であるだけでなく、美しいものです。美しい滝に見とれるとき、満天の星を見るとき、または森の中を歩くとき、神の存在を感じないではいられません。そのように素晴らしい美しさが、単に偶然性だけて出現するでしょうか?画家が彼のイーゼルと絵筆をおいて歩き去り、後でまた最も美しい、心に感動を呼び起こす絵が描かれた彼のカンヴァスに戻ってくるのは、ただ偶然の出来事でしょうか。実存する世界に美しさがあるだけでなく、数学や物理学のバーチャルな世界にも美しさがあります。考える科学者は、そんなにも多くの表面上複雑でかつ互いに無関係な現象が、そんなにも多くの法則で支配されているという異常なほどのエレガンスにも、驚いていないのでしょうか?どこかに目に見えない何らかの創造的な知能が働いているのではないでしょうか?ムスリムたちは、次から次に明らかになる科学的な発見の各々に接するとき、神の創造の荘厳さが眼前に繰り広げられていると感じ、驚きに立ち尽くすばかりです。「我らが主の精巧さ、優雅さ、優美さ、および芸術性はなんと偉大であることか?」とムスリムたちは驚嘆します。

現代の発見は、今まで知られていなかった世界、例えば電子顕微鏡で開かれた新しい世界や、最近の深海探査で見つけられた不思議な素晴らしい生物を明らかにします。エコロジーの網目に存在する驚くべき、繊細な、優雅な組み合わせは、我々の宇宙の背後には、単にランダムなサイコロの転がり[7]とは異なる、驚くべき創造性、芸術性、および知能が存在することの証拠のように思われます。

理由 その6

とりあえず、ここでは、あなたが神、天上界、地獄および最後の審判日を信じていないと仮定しましょう。以下のことを考えてください。もし神が存在しないとしてあなたが神を信じる事なく死んだとしたらどうなるでしょうか?あなたは死んだことを跳び上がって喜びますか?もちろんそれはないですよね。次にもし神が存在したとしてあなたが神を信じる事なく死んだとしたらどうなるでしょうか?あなたは死んだことを跳び上がって喜びますか?もちろんそれはないですよね。

理由 その7

個人的なことですが、私はイスラム教が個人、家族、コミュニティ、および実際の歴史の軌跡に与えている驚くべきインパクトにある種の真実のしるしが見えるように感じています。それをことさら強調するつもりはありませんが、それらのしるしについて考えてもみないでなおざりにすることは正しくないでしょう。これについては、私の考えに同調できない方々がいらっしゃることは承知しています。長々と論じるつもりはありませんが、どういう方たちであるかについては、簡単に述べたいと思います。たとえば、歴史上、幾つかの軍隊が彼らの最強の敵であった兵力を彼らの守備隊に変えてしまった例があります。たとえばウマールは初めイスラム教の強力な迫害者であり、預言者ムハンマドを殺害する寸前まで追求したほどでしたが、後に最も偉大なムスリムの1人となり、 イスラムの第2代のカリフ(リーダー)になりました。

マルコムXの転向も興味深い物語です。この人は、かつて白人に対して強い怒りと恨みを抱いていた人物ですが、イスラム教に会ってから白人との関係を人種を越えて見直すことができるようになりました。

これはマルコムXだけに限ったことではありません。麻薬、ギャング、売春、犯罪、その他のもっと悪い環境に染まった人たちも、そのような泥沼から抜け出すことができました。イスラム教は無数の人々の生活を変え、正しい生活に戻しています。公共予算、社会工学、及びリハビリテーションプログラムが救えなかったケースでも救出に成功しています。明らかにイスラム教には人間の魂の奥深くに触れる何かがあるのです。

預言者ムハンマドに従う者たちの物語と、幼い娘たちを生きたまま土埋めにしたり、無知と不道徳にうもれた生活を送り、偶像を崇め、あらゆる忌まわしいこうしと恥ずべき行為を行い、親族の絆を破り、客人をひどく扱い、弱いもの食い物にしたりすることが横行していた国を、いかにして預言者ムハンマドが出現した直後から正義、真実および思いやりの指標となる国に預言者が変換させたかという物語を読むことによって、それを実感することができます。ムハンマドが歴史のすべての軌跡に与えたインパクトは非常にドラマチックであり、未曾有のことであって、ムスリムでない者が人類の歴史において最も大きい影響を与えた者100人の物語を書く場合でも、そのリストのトップにはムハンマドを選んでいます。

雑多な人間が入り混じった、遅れている、下等な人々に全く新しい生活のシステムをもたらしただけでなく、ほんの数年のうちにその時代の強大国であるペルシャやビザンティン帝国を征服し、従わせてしまったのでした。

理由 その8

「ムハンマドの現象」はどのように説明することができるでしょうか?どうして全く読み書きのできなかった者が、急にクルアーンに取り組むことができたのでしょうか。どうして全く読み書きのできなかった者が、急にクルアーンに取り組むことができたのでしょうか。クルアーンは深い音響学的なリズム、文学的なメリット、および知恵を含んでいます。アラビア語全体の頂点であることは言うまでもありません。しかも、預言者ムハンマドは文盲だったのです。また、彼のミッションに対してムハンマドはどのような動機を持っていたのでしょうか?彼の生涯の初期は、迫害と悲しみに満ちていました。彼に従った者たちのうち一部の者は残虐な拷問に会い、殺され、また一部の者は外国に逃れざるを得ず、彼の仲間はボイコットされ、彼自身も子供たちからターイフの村で石を投げつけられさえしました。絶え間無い辛苦と疑いなく皆殺しの運命に直面しているとき、信仰を続けようとする動機は何だったでしょうか?その動機は富、地位または栄誉だったのでしょうか?彼の動機は何だったのでしょうか?クラーディシュ(彼の部族)が、彼の望みを諦めれば、彼に膨大な富と王位を提供すると彼に告げたときにすら、彼は拒否しているのです。あるとき、彼は彼の叔父に対して、「もし私がこの道を諦めるなら私の右手に太陽を、左手に月を持たせようと彼らが言ったとしても、神が私を勝利者にするか、または私が戦いに破れて死ぬまで、私はそれを諦めないだろう」と言ったとされています。彼がそのような動機をモていたことを見定めることが困難であるだけてなく、我々は預言者が(預言者になるずっと前から)誠実さ、公平な取引、正直と信頼の人間として知られる人物であったことを、我々は覚えておかねばなりません。彼の性格は非の打ちどころのないものでした。事実、クラーディシュはアル=アメーン(信頼)というタイトルを彼に与えていました。

理由 その9

預言者ムハンマドが関係している奇跡が存在するのは事実ですが、ムスリムはクルアーンの奇跡を強調することを好みます。(注:ムスリムは、クルアーンこそ大天使ガブリエルを通じて預言者ムハンマドに示された正に神の世界であると信じています。)彼らがクルアーンを強調するのは、ある意味において、クルアーンそのものが今日、現代においても読み、唱え、分析し、学ぶことができる「生ける奇跡」だからであります。それは音の奇跡、言語の奇跡、そして知恵の深い貯水池なのです。クルアーンは、不信心者に対して同等なものを作り出すことが可能かという、これ以上ない挑戦であり、その挑戦は1400年以上未だ破られていないのです。

クルアーンにはその聖なる起源を示す様々な様子が残されています。例えば、クルアーンはスラーの巻「ビザンティン」において、ビザンティン人によるペルシャ人の敗北を予言しています。しかしこれらのアヤット(すなわち、詩節)は、ペルシャ人によってビザンティン人(例えばローマ人)が何回も壊滅的、重大な敗戦を受けていた頃に現れたものなのです。その後、多くの年月が過ぎた後に、驚くべき運命の反転によって、今度は「ビザンティンの手によって」ペルシャ人が敗北したのです。クルアーンには、最近になって現代科学によってやっと発見され、到底1400年も前には知り得なかったと思われるヒトの胎児に関する事実が書かれたアヤット(詩節)があります。この点は、その当時存在した道具や理論について調べてみれば、さらに強烈なものになります。現在我々が当然なものとして考えている多くの事柄は、その昔、人々が考えていたものとは全く異なります

近年になって、一部のムスリムたちは宗教的た文章を現代科学の光で照らして見直しています。興味深いことに、ある種の言語学的な見解と新しい解釈は最近の科学的発見と一致しているのです。面白いことに、クルアーンは1400年も前にこれらの発見と同じことを著しています。これは単なる偶然でしょうか?これらの解釈に何らかの妥当性があるのでしょうか?そしてもしそうなら、どうしてこの情報が知られていたのでしょうか?それとも我々はこれらの解釈において深読みをしているのでしょうか?たとえこれらの解釈についてどういう見方をしたとしても、興味深い読書となることだけは間違いありません。

例えば、クルアーンは地球が丸いということをほのめかしていますか?クルアーンの中の幾つかの詩節がこの点を示唆しているように思えます。

クルアーンの考えの多くは人が作ったものであるという主張に対して反論する見地は数多く存在しており、ここではそのこく一部だけを紹介しています。(詳細については、本書の別の章を参照してください 。) [8,9]

理由 その10

神を信じない人たちは、サイコロを転がす遊びのために泣いたり、願ったり、死んだりするつもりがあるかどうか考えてみる必要があるのではないかと、ムスリムたちは言うでしょう。(そして、サイコロを転がしているのはいったい誰でしょう、これは質問する価値がありますね。)つまるところ、誰が無意味な、無目的な存在における操り人形になりたがっているのかということです。もし真の正義、真実、同情、愛は存在しないのかと、ムスリムたちは問うでしょう。もし神が存在しないなら、誰が生きていたいと思うでしょうか?ファンシーな、赤いスポーツカーのためですか?海辺の夏のコッテージですか?

ムスリムたちは現世の富や名声と個人的な(非常に壊れ易い)神の位との相似性に飽き飽きしています。人の欲望の乾きや彼の魂の空虚をいやす、それらの終わりの無い追求の脆弱性にこだまする、預言者ムハンマドの言葉があります。

「アナスが神の使者の言葉を次のように伝えている:もしアダムの息子が二つの豊かな谷を所有しているならば、彼は三つ目を欲しがるに違いない。そして、アダムの息子の腹は砂ほこりでいっぱいだろう」(サヒーフ ムスリム 5.2282).

章末

編者の注:これは神の存在に関する章なので、一部の読者は私の科学に関する言及を誤解して、こう言うかも知れません:私は神の存在(または存在の否定)を科学で「証明」すること(全体的な意味で)ができるとは思わない。(一方、この一見あいまいな、または暫定的なベールは、イスラム的アイデアの核心、すなわち、選択の自由を反映していると言うムスリムがいるかも知れません。選択の自由と人の心のゆっくりした表現は、人の命がいかに書き出されているかに対応しています。)

神は、いろんな意味で、「見えざるもの」の領域に所属し、したがって、信仰には信頼の要素が含まれています。しかし、それは盲目的な、無意味な信頼ではなく、神のみしるしは考える個人に与えられた一生を通じての一貫的なマニフェストです。じじつ、たぶん人は神の存在を指差す強力な手がかりを見出すでしょう[10]。

ここでもう一つ指摘しておかなければならないのは、神が存在しないことは科学的には証明できないので、神を信じないと言い切るためには、ある意味で「信じる行為」(この比喩は正確ではないが)、または公理または仮定が必要なはずであり、また多くの場合、すべての物事は人間が観察できるはずであるという盲目的な仮定、が存在するはずす。そのような人々は、見えないものは、あらるゆる実際的な目的において、この世には存在しないと言い張るかもしれません。

しかし、科学の進歩、測定計器の感度の向上、理論の進化、間接的な実験が誕生するにつれ、将来の世代は現在の世代が知らない多くの物事の存在や理論を知ることになるでしょう現代の科学者は、今日、2000年前の最先端の「科学者」が絶対に存在しないと言い切っていた物事、または想像の限りを尽くして思い描いていたに過ぎなかった物事の存在を確認しています。歴史上のある時期の誰かがあるものが存在しないと言ったからといって、そしてそれがその時代のその人の目、または感覚を通じて、見えないからといって、そのものが存在しないとか、存在が消えるわけはありません[11,12]。

これは本の抜粋です やさしく解き明かされるイスラム教

章末の注

[1] 理論的には このパラメーターはある範囲をもっています。たとえば、「デボン紀」(4億年前)の1年は400日で構成されていました(また1日は22時間から成っていました)。これは化石の記録などを調べることで事実であることを知ることができます。現在の数字 ( 24 時間 / 1日のように)は潮汐力や大陸移動のような現象によるものです。

[2] たとえ地球外生命体が発見されても、この議論が弱まることはないでしょう。むしろ、強まるでしょう。そんな発見が生じれば、さらに疑問が生まれるに違いありません。なぜそのように大量の粗野な状態およびそれらの変形が存在しているのでしょうか?基本的に、無から生命が生じること自体、起こり得ない出来事です。異なる様々な生命体が無から生じることはさらにあり得ないことです。(ここで関連するポイントの思考の完全化を図るために少し脇道にそれはいると、ムスリムはジンと呼ばれる別の創造物(人間に追加して)の存在を信じています。「ジン」という言葉には多くの定義が存在します。1つの定義によると、それは火からできていて、人間と同様に善悪の判断をする能力を備えています。)クルアーンによれば、神は「すべての世界の主」と呼ばれています。まだ納得に行かない読者のためには、また別の注記によると、1960年代に、ドレークの方程式と呼ばれるものを使用して地球と同様な世界の存在の確率を予測しようとする研究が行われました。この方法に関しては、様々な問題が指摘され、たとえば、多くの要因が無視されてきたのではないかと指摘されています(たとえば、プレートテクトニクス(金属、熱サイクルに使われる)、木星の重力が内惑星を小惑星の衝突から防護するのに役立つとか)。また、様々な因子に対して割り当てられた番号が間違っていたことも指摘されています。さらに一部の人たちは、もしそんなに多くの可能性があるならば、なぜ高度の文化をもつ訪問者がいまだに地球訪問していないのかという「フェルミのパラドックス」を示唆しています。また、別の話題ですが、一部の人たちは遺伝的進化のアルゴリズムを使ったコンピューターのシミュレーションについて語っています。しかし普通の遺伝アルゴリズムはある種の問題、例えば漸近線に到達する傾向があり、しばしばローカルの(グローバルでない)最大値に移行することが多いという問題を提起します。我々は、サイコロに神格、たとえば知能などを与え、それらの事実を取り繕ってしまうことのないように、気をつけなければなりません。

[3] 天文学に詳しい人のための例としては、「どのように」の答え=タイコ・ブラーエの惑星データ、「なぜ」の答え=そのデータに存在する経路を「説明する」ケプラーの楕円方程式、があります。第一の反復/帰納:ケプラーの楕円は現在「どのように」の回答になっており、ニュートンの万有引力理論は現在「なぜ」の回答になっています。第二の反復/帰納:ニュートンの万有引力理論は、一方、「どのように」質問の回答になり、万有引力は実際は時空間への曲率であることを「説明」(すなわち新しい「なぜ」の質問の回答)を提供しています。また、新たなモデルは様々な仮定(たとえばニュートンの理論は「日常的世界」でうまく働くこと)をしています。アインシュタインの理論はそれとは異なる環境、たとえば巨大物体(たとえばブラックホール、初期宇宙など)を取り扱うときに必要になります。

[4] GPS は、物理学の進歩(例えば相対性理論)がいかに一部の「本能的」ではあるが、役に立たなくなった古典物理学(時間に関する)の仮定を修正するために必要であったか、結果的に「強化された「どのように質問」の回答」となり、われわれのGPSレシーバーを使用可能にしたかを示す一例です。

GPSは天空にある(4個の)基準衛星を使って位置を見つける仕組みです。この方法は、距離の変分=速度(光の速度)x時間(信号の推移時間)によって三角測量を行うものです。その主要部分は時間の変化であるアインシュタインの特殊および一般相対性理論に基づく、時間の希薄化および質量による時間のゆがみを調整する必要があります。(注:アインシュタインの一般相対性理論は、また、重力を「曲がった時空」として再構成しました。)

これに新しいデータが既存のアイデアと仮定に挑戦し、回答、すなわちモデルを強化することを求める、もう一つの例があります。すなわち、原子構造に関するJ.J. トムソンのプラムプディングモデルに対抗するニールス・ボアの量子クラウドモデル(確率)です。

(物理学には興味がないですか?では、化学の例はいかがでしょうか。メンデレーエフが最初に提唱した理想的なガスの法則と、しかしその後、低温高圧のガスをさらにうまく説明するために導入されたファンデルワールスの方程式による改良との関係はいかがですか。)

[5] さらに数学的に能力を持つ方は、ゴーデルの不完全性定理に興味を抱かれるでしょう。その理論は、例えば数学のような物事の限界を極めようとするものです。その他の関連するアイデアアラン・チューリング(計算不可能な関数)、それほどは面白くないけれども、まったく不思議なのは、チャーチ/チューリングの強および弱形態のそれぞれにおける命題です。(それほど面白くないのは、それが推論に過ぎないからです。)

[6] 天文学に興味をお持ちですか?「観測可能な宇宙が縮小しつつあるということはご存じですか?(その理由としては、宇宙の加速的な拡大暗黒のエネルギーを参照してくださいーと光速があげられます)。いつかは空に見えるのは銀河だけという時が来るかもしれません。その時になるとすべての過去のデータが消えてしまい、多くの真実が観測できなく(しかしそれでも真実ですが)なるかもしれません。

[7]「偶然」の疑問はふつう考えられるよりずっと複雑なものかもしれません。例えば、プリンストン大学のPEAR(プリンストン工学的特異点研究所)は、REG(ランダム事象発生器)と人間の「意識」の間のやり取りを研究した結果、いささか謎の多い結果を提供しています。明らかに、偶然事象を「曲げたい」という欲望または意図があると、僅かですが有意義的に偶然性を「転移」させるというのです。(www.princeton.edu/~pear/)

[8] 仮に1400年以上も昔のクルアーンにその時代の科学者にとって「興味の対象または話題」として存在していたとしても、これらのことをムスリムが意識するようになったのは非常に最近のことであり、1400年前のムスリムたちはそれについて何もしていなかったということは注意しなければなりません。

[9] ヨーロッパの歴史は科学と教会の間の騒然たる関係で溢れていますが、イスラム社会には全くそうした歴史はありません。その代わりに、イスラム教は教育と知識の追求を促進したので、イスラム教と科学は互いに手を取り合って栄えていったのです。これは、ガリレオの有名な裁判を含む科学と教会の間の衝突と、鋭い対比を成しています。

[10] 不可知論者の言い分には、いくらか怠け気味で謙虚さが足りないことが気になります。素晴らしく崇高なオープンな探求事業において僅かに臭う転覆の意図、しかも最終的には腐らせ、破壊するという2つの性質。

[11] プリンストン大学のPEAR (Princeton Engineering Anomalies Research;工学的変則の研究)研究室による、REG(ランダムイベント発生器)と人間の「意識」の間の相互作用、および「遠隔視覚」に関する研究が行われてきており、我々の現在の理解レベルを超える、僅かではあるが統計的に有意義な相互作用が存在するかしれないという可能性を示唆しています。我々が現在理解できる範囲を超える次元の相互作用が存在するかもしれないというのです。

[12] 量子力学(微小な物の物理学)の不思議な複雑さが将来さらにどのように解明されてゆくかは大いに興味あります。こんにち、量子力学と物理学はマインドベンディングすなわち視覚観察において、原因が効果に先立つというように、観察行動が観察結果に影響を及ぼすこと(たとえば、実験的には、このトピックに関して興味深いダブルスリット実験が行われている)も報告されており、現在の当然のように受け入れられている時間および/または存在の次元に関する理解が将来変わるかも知れません。

本からの抜粋 やさしく解き明かされるイスラム教

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